有村次左衛門 ~桜田門外で大老・井伊直弼の首を取った男~
日本史の実行犯 「あの方を斬ったの…それがしです」
次左衛門は、薩摩の剣術である薬丸示現流の掛け声を叫びながら襲い掛かります。これに慌てた彦根藩士たちは主君が乗る駕籠を置き去りにして逃げ出し、残った者の多くも討ち取られてしまいました。この時、彦根藩士は雪によって鍔(つば)や目釘が錆びないように刀の柄と鞘に布袋をかけていたため、すぐには刀が抜けずに戦えませんでした。また、居合術の達人であったという井伊直弼も、合図で放たれた銃弾を腰に受け、駕籠の中で動けなくなっていたと言われています。
警護する者がいなくなった駕籠に殺到した浪士たちは、中にいる井伊直弼を狙って刀を突き刺しました。そして、次左衛門は駕籠の戸をむしり取り、瀕死の井伊直弼を外へ引きずり出し、上段に刀を構えました。
「きぇぇぇぇぇぇーー!!!!」
次左衛門は、薬丸示現流の打ち込みの際に発する「猿叫(えんきょう)」と呼ばれる激しい気合いを発しながら刀を振り下ろし、井伊直弼の首を討ち取ったのです。そして、刀の切先に井伊直弼の首を突き立てて勝鬨を挙げました。
「よか、よかー!!」
薩摩で首尾良くいったときに使われる方言を次左衛門が声高に叫ぶと、本懐を遂げた水戸浪士たちも続けて鬨の声を挙げました。わずか10数分の戦闘を終えた次左衛門は、その場を後にしようとしました。しかし、その直後―――。
次左衛門は、小河原秀之丞(おがわら・ひでのじょう)という彦根藩士に、背後から不意に斬りつけられてしまいました。秀之丞は戦闘の中で負傷して意識を失っていたところ、先ほどの鬨の声で意識を取り戻し、主君の首を取り返そうと次左衛門に刀を振り下ろしたのでした。
周りにいた浪士によって秀之丞は斬り伏せられましたが、次左衛門は歩くことが困難になるほどの傷を負ってしまいました。後の幕府の役人の調べによると、その傷は後頭部の傷は4寸7分(約14.1cm)に達していたそうです。
井伊直弼の首を引き摺りながら、日比谷見附から馬場先門の前を通り、和田倉門に差し掛かって、次左衛門はついに全く動けなくなりました。そして、若年寄の遠藤胤統(えんどう・たねのり)の屋敷の門前で力尽きて切腹をしようとします。
ところが、次左衛門は刀を持つ力が残っておらず、上手く切腹することができません。集まり始めた見物人に向かって苦しみながら介錯を頼みましたが、みな尻込みをしてやろうとはしません。次左衛門は仕方なく、最期に目の前に積もっていた雪を手に掴み、口に入れました。これは「切腹した時に早く死にたければ、水を飲めば良い」という武士に伝わる教えに従ったものだったと言います。間もなくして、次左衛門は息耐えました。
次左衛門は、この襲撃の前夜に祝言を挙げていたと言われています。相手は薩摩藩士の日下部伊三治(くさかべ・いそうじ)の娘の松子。伊三治は「安政の大獄」で牢獄に入れられ、激しい拷問の末に獄死していました。またその息子の裕之進(ゆうのしん)も獄に繋がれ、この後に獄死しています。
この経緯から井伊直弼に深い恨みを持っていた日下部家は、井伊直弼暗殺を謀る薩摩と水戸の浪士たちの密議の場を提供したり、自邸に匿ったりしていました。そういった中で、日下部家の娘の松子は次左衛門にほのかな恋心を抱き、松子の母の静子も次左衛門を婿に入れ日下部家を継いでほしいと考えていました。しかし、次左衛門は「決死の覚悟であるので」と相続を断り続けていました。
そして、襲撃の前夜に次左衛門が日下部家に別れの挨拶をすると、松子の母の静子が「祝言を承諾してくれないとこの席を立たせない」と迫ったために、次左衛門は松子と祝言を挙げ、一夜限りの契りを結びました。この時、二人が交わした和歌が残されています。
次左衛門「春風に さそわれて散る桜花 とめてとまらぬ わが思ひかな」
松子「君がため つくす真心(まごころ)天津日(あまつび)の 雲の上まで 匂ひゆくらん」
尊王思想から湧き起こる次左衛門の本懐と、今宵限りの夫の決意を健気に後押ししようとする松子の切ない心情がうかがえます。次左衛門が最期に掴んだ雪は松子の白無垢を想わせたかもしれません。
(文/長谷川ヨシテル)
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